柞原八幡宮の歴史
社 号
柞原八幡宮(ユスハラハチマングウ)
・大正五年(1916)国幣小社に昇格。
創 建
天長四年(827)延暦寺の名僧
・金亀和尚が宇佐神宮の参篭にて神告を蒙り、柞原山に勧請したのを、当宮の創設起源とする。
御祭神
応神天皇
「誉田別命」(ホンダワケノミコト)
仲哀天皇の皇子、神功皇后が御母。天皇は深く国内外の政治に大御心を用いられ、又、文学にをそそがれ、大船を造られ交通の道を開かれ、国内は勿論、韓土との交通も頻繁となる。又殖産興業にも力を注がれた。故に「厄除・開運の神、諸産業の守護神」として崇められている。
仲哀天皇
「帯中日子命」(タラシナカツヒコノミコト)
熊襲の反乱を御親征の為、船を率いて海路筑紫に幸し、これを討たれたが、陳中にて崩じ給うた。
神功皇后
「息長帯比女命」(オキナガタラシヒメノミコト)
御幼時より聡明宜つ容姿端麗であられた仲哀天皇の二年に皇后となられた。内助の功多く、天皇の没後、男装して海を渡られ新羅を征服す。爾来、応神天皇を奉じ政をとり給う事七十年、御年百歳にて崩じられた。
皇室の御祟敬
当宮は承和三年(八三六)、右大臣・清原夏野が勅を奉じて国司・大江宇久に社殿を造営せしめ、爾来、国司の厚い崇敬を受け、一方皇室も厚く尊崇せられた。 又、嘉承三年(一一〇八)には、勅使の参向があり、敷地の四至を定め税を免ぜられた。 仁平三年(一一五三)には、鳥羽法皇が六十歳の御祈願を修せられ、神領を定められた。 元暦元年(一一八四)には、源範頼が平氏の追討を祈願したのをはじめ、源頼朝・領主(大友・竹中・日根野)・武家の崇敬も非常に厚く、近世には、社家二百余・坊舎三十を教えた。